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CSR報告書

フジクラグループCSR報告書2013
〔ISO26000 中核主題〕 コミュニティへの参画及びコミュニティの発展

社会貢献活動

当社グループの社会貢献活動の考え方

当社グループの社会貢献活動についての考え方は、グループ経営理念MVCVである『フジクラグループは、“つなぐ”テクノロジーを通じ顧客の価値創造と社会に貢献する』及びグループのCSR基本方針の中の『社員一人ひとりが「社会」の一員として自分達の役割を自覚し、社会的良識をもって行動します』の一文を以って、その基軸としています。また、活動するにあたっては、グループのCSR活動指針の中で『各国・各地域の文化や慣習を尊重し、積極的に社会貢献活動を行います』と定めています。私たちが取り組む社会貢献活動についての考え方は、これらをベースとしています。

私たちの社会貢献活動は、1919年に当社の元監査役・中内春吉が私財をもって知的障がい者教育施設「藤倉学園」を創設したときに始まりました。私たちは、この時から会社と個人の両方の立場で「藤倉学園」を支援するとともに、企業として「社会」との係わり方を時代の変遷と共に、見つめ、実践して今日に至っています。私たちの社会貢献活動の歴史は「藤倉学園」の創設から数えて90年以上が経過しました。私たちは、この「藤倉学園」への支援を当社グループの“社会貢献活動の原点”として、これからも大切に守っていこうと考えています。

2012年度の当社グループの社会貢献活動は、グループ全体で約290件の活動がありました。

社会貢献の流れ ~「藤倉学園」の創設から「フジクラ 木場千年の森」まで~

私たちの先人が、東京の木場の地に工場建設の槌音を響かせたのは1919年のことです。以来、私たちは木場の地域の皆様と共に生き、ともに90有余年の歴史を刻んできました。そして、2010年11月、木場にあった旧深川工場跡地の再開発の完成にあわせて、生物多様性の確保及び地域コミュニティとの連携の2つの面から、私たちは水辺が広がる木場の街にふさわしいビオトープとガーデンの2つ機能を持つ「フジクラ 木場千年の森」を創設しました。

社史をたどりますと、1885年の創業にはじまり、その後の基礎確立期から今日に至るまで、私たちは、“お客様を大切にし「社会」と共に生きていく”ことを企業文化として育み、護り、そして今日まで社員一人ひとりの心に受け継がれてきました。現在、私たちフジクラグループは、グローバル化の最中にあります。さまざまな国と地域の人々とのかかわりの中で、その地域の皆様と共に生き、その地域社会に貢献するという私たちの企業文化はそこでも息づいています。

それでは時間をさかのぼって、藤倉学園の創設など私たちの先人達が、個人として、また企業として行なってきた社会貢献の活動を、120有余年の社史の流れの中からご紹介します。

西暦 (和暦) 貢献の内容  
1916年 (大正5年) 岡田顕三(元常務)/私的な学資支援を始める
詳細①
1919年 (大正8年) 中内春吉(創業者の実弟、元監査役)/大島に「藤倉学園」を創設
詳細②
1929年 (昭和4年) 松本留吉(初代社長)/ハンセン病患者のための新「草津聖バルナバ医院」を寄贈
詳細③
1935年 (昭和10年) 松本留吉(初代社長)/「二宮文庫」(現 栃木県立図書館)開設にあたり塙保己一著「群書類従」全530冊を寄贈
詳細④
1936年 (昭和11年) 松本留吉(初代社長)/「理化学研究所」へ研究助成で研究資金を寄付 詳細⑤
1938年 (昭和13年) 松本留吉(初代社長)/伊豆大島に「大島測候所」を寄贈
詳細⑥
1939年 (昭和14年) 松本留吉・藤倉各社/研究開発及び研究助成のため「藤倉研究所」(現 「フジクラ財団」)」を創設 詳細⑦
1965年 (昭和40年) 戦前からの育英事業を「フジクラ育英会」として再興 詳細⑧
2010年 (平成22年) 地域コミュニティと生物多様性確保のため「フジクラ 木場千年の森」を創設
詳細⑨

①1916年(大正5年) 岡田顕三(元常務)/私的な学資支援を始める

岡田顕三(元常務)は、1916年(大正5年)、東京府立第一中学校(現 日比谷高校)に川田正澄校長を訪ね、「学費に困っている学生があったら知らせてほしい」と申し出る。川田校長推薦の学生には無条件で返済義務を負わせない学費を支給した。岡田顕三43歳の時である。

優れた才能を持ちながら学費が乏しいために就学をあきらめなければならないような不遇な学生に何の条件もつけずその学生が学業を終えるまで月々一定の学資を提供して多くの俊才を育成した岡田の唯一の条件は、「決して世間には漏らしてはならぬ。わしが死んだ時には、皆、集まってくれ。」であった。また、それら学生が帰省するときには多忙の中、夫婦で東京駅まで見送り、餞別や土産を贈ったり、また、慶弔でも親身になって対応している。その支援した学生の数は10数名にのぼり、後に学生達は「朱雀会」を作る。

②1919年(大正8年) 中内春吉(創業者の実弟、元監査役)/大島に「藤倉学園」を創設

中内春吉(創業者の実弟、元監査役、事業家)は、慈善の心があつかった亡母の遺訓を忘れることなく長年大切にしてきた。それを記念事業にしようと私財23万円(現在に換算すると20億円程)と伊豆大島にある4万坪の土地と建物などを寄付し、それを社会事業家・川田貞治郎氏に託して伊豆大島に知的障がいのある子供達のための施設「藤倉学園」を1919年(大正8年)6月7日に創設した。以降、フジクラの歴代の社長及び役員は学園の経営を支援すると共に多くの社員が給料の中から学園への寄付を行なってきた。

③1929年(昭和4年) 松本留吉(初代社長)/ハンセン病患者のための新「草津聖バルナバ医院」寄贈

還暦を迎えた松本留吉(初代社長)は、社会貢献となる事を探していた。親しくしていた同郷の宮内省次官・関屋貞三郎邸を訪ねた時、衣子夫人より、ハンセン病救済事業に捧げた英国人宣教師コンウォール・リー女史の病院再建の話を聞いて、その場で寄付(草津に新病院の建築と医師の派遣)を申し出る。松本留吉は、寄付の申し出と同時に「この寄付は覆面のままで、夫人の名前にしてほしい。」と語った。

松本留吉は、病院の建築費7万円と10年間分の医師の費用3万円の合計10万円(現在に換算して3億円程)を寄付する。1929年(昭和4年)11月、新「草津聖バルナバ医院」が開業する。松本留吉の寄付によって一新された聖バルナバ病院は、主にハンセン病を対象とするものとしては、当時、例を見ない充実した施設であった。現在、この病院は残っていない。

④1935年(昭和10年) 松本留吉(初代社長)/「二宮文庫」(現 栃木県立図書館)の開設にあたり、塙保己一著「群書類従」全530冊を寄贈

1935年(昭和10年)、松本留吉(初代社長)は、座右の書として愛読し、家宝としていた江戸時代の国学者・塙 保己一(はなわ ほきのいち)の著で貴重な歴史書である「群書類従」(ぐんしょるいじゅう)全530冊を、「二宮文庫」(現 栃木県立図書館)の開館にあわせて寄贈する。「二宮文庫」は松本留吉の郷里である栃木県で二宮尊徳没後50年記念に設立された。栃木県立図書館には今もこの和綴じの全巻が大切に保管されている。

⑤1936年(昭和11年) 松本留吉(初代社長)/「理化学研究所」へ研究助成で研究資金を寄付

松本留吉(初代社長)は、1936年(昭和11年)、「(財)理化学研究所」の2つの研究テーマ(「石炭液化プラント」及び「稀有金属探査研究」)に対して、当時の金額で51万円5千円を研究助成の目的で寄付を行った。

⑥1938年(昭和13年) 松本留吉(初代社長)/伊豆大島に「大島測候所」を寄贈

松本留吉(初代社長)は、当時の東京湾汽船社長の援助要請を受けて各分野の研究者の意見を聞いた上で、伊豆大島の「大島測候所」の建設は国家的に重要であるとして寄付すること決定した。寄付の理由は、①台風などへの備えとして東京湾頭の大島の気象観測は東京都民に有益である、②年間10数万人の観光客が訪れる際の大島の航行・登山の安全のため、などがある。松本留吉は、総費用の18万円の全額を寄付しようとするが、東京湾汽船が1万2千円、その他も出すことになり、最終的には15万円の寄付を行った。松本留吉は、その完成を見ることなく1938年(昭和13年)3月に逝去するが、その後、継嗣・松本新太(2代社長)が建設を受け継ぎ完成させる。1938年(昭和13年)7月に政府へ献納手続きを終え、中央気象台に全てを引渡した。現在の元町に建設され大島測候所は、本館、博物館、山上観測所、検潮所、観測船等からなる。現在は無人化されていて、合同庁舎内に移っていたが2009年10月からは「大島特別地域気象観測所」となり、事務所も町役場内に移っている。

⑦1939年(昭和14年) 松本留吉・藤倉各社/研究開発及び研究助成のため「藤倉研究所」(現在、「フジクラ財団」となる)」を創設

松本留吉は、「藤倉研究所」の創設のために10万円を寄付し、それに藤倉電線・藤倉工業・藤倉化学工業の3社の寄付110万円を加え設立準備を進めていた。その途中で松本留吉は逝去するが、松本新太(2代社長)が受け継ぎ、1939年(昭和14年)4月に「(財)藤倉研究所」が創設された。当研究所の目的は、研究開発と研究者への研究費の助成を行なうことであった。場所は、埼玉県与野の日本信号(株)の敷地を借りて発足した。

⑧1965年(昭和40年) 戦前からの育英事業を「フジクラ育英会」として再興

初代社長・松本留吉の時代から育英事業を起こし広く人材育成の支援を行ってきた。その後、戦後の情勢が安定した1965年(昭和40年)に「フジクラ育英会」として再興した。この「フジクラ育英会」の事業は、社会報顧の精神から行われ、社会各界への人材育成をその趣意としている。2009年3月末の時点で、支援を受けた学生は500人を超え、各界で活躍している。

⑨2010年(平成22年) 地域コミュニティと生物多様性確保のため「フジクラ 木場千年の森」を創設

地球温暖化等により絶滅種の増加が大きな問題となっている。当社グループは、第3の創業の記念事業として、工場跡地の再開発事業地(深川ギャザリア)の一角に、都心には少ない自然と触れ合えるギャザリア・ビオガーデン「フジクラ 木場千年の森」を2010年(平成22年)11月に創設しました。ここは、自然の生きものたちを守る「ビオトープ」(野生生物が生息している空間を意味するドイツ語)と、地域の方が憩いまた未来を担う子供たちの自然・環境教育に役立つ「ガーデン」の両方の機能を備えている。園内には池や小川があり、在来種の樹木や魚を配して、かつてこの地域に存在していた関東沿岸部の武蔵野の自然の再現を目指している。時間とともに豊かな生態系がはぐくまれ、この「フジクラ 木場千年の森」が、生きものたちにとって大きく豊かな森となり、それがはるか一千年先の未来へと続くように、私たちは心から願っています。

主な活動

「藤倉学園」とのかかわり

「藤倉学園」は、90年以上前の1919年(大正8年)6月7日に創業者・藤倉善八の実弟・中内春吉(元監査役)が、知的障がい者・児童のために多額の私財(現在に換算すると約20億円)と伊豆大島の土地4万坪、学園の土地・建物を寄付し、伊豆大島元町に創設されました。現在、伊豆大島と多摩(八王子)にその施設があり、約130人の園生に約100名の職員が24時間体制で教育・厚生に当っています。私たちは、創設時から歴代社長・役員が理事として、また会社の寄付とともに社員個人からの寄付を今日まで続けてきました。私たちは、「藤倉学園」への支援活動を社会貢献の"原点"として今日まで、またこれからも大切に守っていきたいと考えています。 2012年度、新入社員全員の一日ボランティアや学園で製造された藤倉学園製品の即売会等を行いました。

藤倉学園創設者 中内春吉

藤倉学園創設者 中内春吉

社会福祉法人藤倉学園

創設 1919年(大正8年)6月7日
理事長 川田仁子
事業内容 大島藤倉学園
多摩藤倉学園
園生数 約130名

大島藤倉学園建物

大島藤倉学園建物

藤倉学園製品の即売会

6月と12月の藤倉学園賛助会加入促進月間にあわせて、藤倉学園製品の即売会を開催しています。今年で3年目です。伊豆大島にある「藤倉学園」の園生の自立支援施設「フジカフェ」で作られたマドレーヌ、クッキー、パウンドケーキなどを販売しました。あわせて寄付金も集めました。

深川地区即売会

深川地区即売会

佐倉事業所即売会

佐倉事業所即売会

新入社員一日ボランティア

今年も新入社員全員で「多摩藤倉学園」(東京都八王子市)での一日ボランティア活動を行いました。「藤倉学園」への支援は、1919年の創設以来90年以上にわたって先人たちが続けてきた私たちの社会貢献活動です。私たちの良き伝統を新入社員も体験を通して学びました。

「フジクラ財団」への支援

当社グループは、科学技術分野の研究者への助成活動を続ける「フジクラ財団」を支援しています。公益財団法人「フジクラ財団」は、70年程前の1939年6月に当社2代目社長・松本新太により財団法人「藤倉研究所」として設立されました。その設立資金は、当社初代社長・松本留吉からの寄付金10万円で、それに藤倉電線(現 フジクラ)及び藤倉工業(現 藤倉ゴム工業及び藤倉化成)からの寄付金110万円が加わりました。埼玉県与野市の研究所でスタートした藤倉研究所は、その後、千駄ヶ谷、鮫津へと所在地が変わりましたが、主に高分子関係の分野を中心に研究が行なわれました。

その後、1946年に名称を財団法人「新生資源協会」と改称し、1962年にはその事業の中心を科学者や技術者への研究助成としました。以来、当社は、科学者や技術者に研究資金を助成する「新生資源協会」の活動を支えることで社会に貢献してきました。そして、財団法人「新生資源協会」は、2011年4月1日に公益財団法人となり、2012年11月1日にその名称を「フジクラ財団」に変更しています。

「フジクラ 木場千年の森」を地域と護る

東京の都心に位置する「深川ギャザリア」内に創られた「フジクラ 木場千年の森」(「千年の森」と略す)は、2010年11月に東京・木場のフジクラ本社横に創設されたビオトープとガーデンの両方の機能を持つ地域コミュニティのための自然空間です。「千年の森」の創設のきっかけは、地元の学校や住民からの緑化への要望でした。また、この年は地球上の生物の絶滅の増大が問題となり、生物多様性への取組みが世界中で高まった年でもあります。この「千年の森」は、広さ2200m2、2つの池とそれを繋ぐ小川、浮島、遊歩道などがあり、生きものたちが優先される空間として、また数百年前の武蔵野台地の豊かな森や林を再現しています。私たちは、地域の皆様と共に四季折々のこの豊かな自然を末永く護っていくことを願って「フジクラ 木場千年の森」と命名しました。

「フジクラ 木場千年の森」の正面

「フジクラ 木場千年の森」の正面

「フジクラ 木場千年の森」のある「深川ギャザリア」のオフィスビル

「フジクラ 木場千年の森」のある「深川ギャザリア」のオフィスビル

スポーツ活動への支援活動

当社グループは、地域コミュニティへの参画と発展を支援する目的で地域のモータースポーツへの協賛やJリーグの地元サッカーチームへの支援活動を行なっています。

スポーツ支援

スポーツ支援