善八の生まれた栃木県植野村(現 佐野市)船津川は、渡良瀬川と支流秋山川との三角地帯にある。藤倉家はかなりの田畑を持っていたが、たび重なる洪水のため、収穫は年々減少した。父熊吉は、農業の傍ら、木材販売、回漕業などを行ったが家運の好転はなかった。
やがて善八は、「沼端」で水車による精米業を始めるが繁盛のほどには利が少なくて災厄にも見舞われた。善八は意を決し、水車権の契約が切れたのを機に新生活を求めて東京への進出をする。1875年(明治8)、善八33歳のことである。
生家
船津川風景
創業地 神田淡路町工場(矢印)、隣は賀来神社
1875年(明治8)の上京以来、善八の生活は苦闘の連続であった。蒸気力を応用した精米業を志して買い入れた蒸気機関が不良品で、その訴訟に3年かかり、事業は頓挫した。その後のいくつかの事業もうまく行かなかった。
1881年(明治14)神田淡路町1丁目1番地に転居したことが彼に幸運をもたらした。善八の妻いねが、家計を助けるために隣家の職人から手ほどきを受け、手内職として「根掛け」を作り始める。それがやがて善八一家の仕事となった。当初は1台の組紐の機械を朝から夜10時までは妻いねが動かし、その後は善八が一晩中動かして翌朝いねに引き継いだ。その後、職人も増え、2丁目の借屋を工場にあて、昼夜の別なく動かした。
1884年(明治17)、善八は丸型の根掛けを創意工夫する。その新製品に「市川掛け」と命名し、当時の歌舞伎の名優9代目市川団十郎に依頼して口上とともに毎日数百本を客席にばら撒いた。それが評判となり、全国から注文が殺到する。そして、その利益が善八の電線事業の資金的背景となったのである。
善八と留吉が見つめたアーク燈のあった日本橋際の郵便局と日本橋(手前)
1883年(明治16)11月の夜、日本橋通りで公開されたアーク燈の点燈は見学者の数が記録的なものであった。その大群衆の中に善八がいた。末弟の留吉もそのそばにいた。2人は四つのひとみで輝くアーク燈を見つめていた。善八41歳、留吉16歳である。
根掛けからどうして電線製造を思いついたのか。『藤倉善八小伝』は次のように伝えている。
「1882年 銀座にアーク燈点燈」の錦絵
「会々、明治16年晩秋、日本橋際郵便局ノ露台ニ於テ“アーク燈”ヲ点ジ、市民ニ電光ヲ紹介セシコトアリ。善八始メテ其ノ煌々タル光に浴シ、感嘆措ク所ヲ知ラズ、爾来電気事業ニ深ク興味ヲ有スルニ至リ、且ツ自ラ使用シ来レル糸組器機及絹、綿糸ガ当時ノ幼稚ナル電線トハ極メテ密接ナル関係ヲ有スル事ニヨリ、茲ニ不思議ナル縁由ヲ以テ、電線製造ニ手ヲ染ムルニ至レルモノナリ。時維レ実ニ明治18年2月トス。」
深川に移された当時の賀来神社
当社は賀来神社を会社の守護神としている。その縁起であるが、善八が住んだ神田淡路町1丁目には、かつて大給(おぎう)邸があり、賀来神社が祭ってあった。それが1872年(明治5)に本郷の別邸に移され、御神木の珊瑚樹は付近に住む鳶頭某がもらい受けた。
善八は、賀来神社を深く崇敬するようになり、また、神田淡路町は発祥の地でもあったので分祀を願い出て、当社の守護神としたのである。同時に珊瑚樹も譲り受け、千駄ヶ谷工場へ装飾した牛車で運び、御神木とした。
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