株式会社フジクラ

  1. Home
  2. 企業情報
  3. 1890年
先哲の室 ~フジクラの歴史~

1890年

千駄ヶ谷工場

千駄ヶ谷工場 1

1890年(明治23)9月、千駄ヶ谷900番地の紀州徳川家の土地を買収して新工場を建てた。ここにも玉川上水を利用する水車があって、より大きく、より強力であった。水車動力でゴムローラを動かし、ゴム線の製造が始まった。その頃、ゴム線では国産品はなく、専ら高い外国製が使われていた。“ゴムを制するものは電線を制す”と言われ、ゴム被覆線の完成は電線会社の悲願であった。工場敷地100坪、水車の大きさ5.4m。

1887年頃の新宿西口 左奥の林の向こうに工場はあった
1887年頃の新宿西口
左奥の林の向こうに工場はあった

千駄ヶ谷工場 1
千駄ヶ谷工場①
地図に残る水車、工場
地図右上が新宿駅(国土地理院/1909年発行)

地図


千駄ヶ谷工場 2

1896年(明治29)6月、千駄ヶ谷922番地に工場を移転。当社としてはゴム線の量産を急がねばならなかったが、ゴム量産のための蒸気機関がなかった。幸運にも同じ千駄ヶ谷の922番地にあった製糸工場が事業不振で休業しており、蒸気機関もあり、馬力の強い水車もついていた。工場敷地995坪と当時としては大きすぎる規模であったが、善八は将来を見越して買収を決意した。これでゴム線の総ての工程を一工場内で行うことが可能となり、その製造能力は飛躍的に増加した。主力製品は、東京線、パラフィン線で、ゴム被覆線は品質改良で苦闘時代にあった。翌月の7月、善八の甥の岡田顕三をゴム被覆線の技術習得の目的で渡米させた。1900年(明治33)8月、帰国した岡田顕三は、技術面で最も重要な役目を果たすのである。1901年(明治34)「藤倉電線護謨合名会社」設立。1910年(明治43年)には電線事業の規模拡大の必要性から新社名「藤倉電線株式会社」となった。

千駄ヶ谷工場 2(1896年当時)
千駄ヶ谷工場②(1896 当時)

千駄ヶ谷工場 2(1918年当時)
千駄ヶ谷工場②(1918 当時)


工場の門
工場の門

工場内部
工場内部

工場内部

松本留吉初代社長

松本留吉 初代社長
松本留吉 初代社長

1868年(明治元)11月28日栃木県植野村(現 佐野市)船津川で誕生。創業者藤倉善八の末弟。1890年(明治23)、米国より帰国後「松本家」を継ぎ、横浜の洋家具店を営む一方、上京しゴム被覆線の研究で兄善八を手伝った。その後、善八は留吉に電線事業に専念するように要請。留吉は1901年(明治34)5月洋家具店を処分し、善八の要請を受け入れ、上京する。その年の10月、善八が死去する。留吉はその後継者として善八の個人企業を会社組織とし、1901年(明治34年)10月25日、藤倉電線護謨合名会社を設立し、その代表社員となった。その後の留吉の精力的な努力もあって電線事業は益々発展、また「技術の藤倉」を確立させていく。1910年(明治43)3月18日、電線事業拡大の必要から電線事業を分離、藤倉電線株式会社が誕生する。留吉43歳である。1903年(明治36)、旋風で工場全壊、1923年(大正12)、関東大震災で深川工場焼失という危機にも時を移さず率先躬行にて再建。1938年(昭和13)で松本留吉社長が関係する会社は45社であった。1938年(昭和13)3月24日、松本留吉死去、71歳。

松本留吉社長を支えた4人
岡田顕三(製造・開発を担当) 中内春吉(国産絶縁紙など開発) 兵藤治三郎(販売・仕入を担当)) 関口善吉(震災復興を推進)
岡田顕三
(製造・開発を担当)
中内春吉
(国産絶縁紙など開発)
兵藤治三郎
(販売・仕入を担当)
関口善吉
(震災復興を推進)

PAGE TOP